26時のメトロポリス

テレビやレディオのお話

キングオブコントに「ドカン」の笑いは必要か

コロナの影響で開催そのものが不安視されていたキングオブコント2020も無事開催され、ジャルジャルが13回目の挑戦にして悲願の優勝。大盛況のうちに幕を閉じた。ロングコートダディニッポンの社長などの若い世代も、独特の世界観で新鮮な笑いを提供してくれた。

 

松本人志・さまぁ~ず・バナナマンら5人の審査員になってから6回目の大会となるが、ここ数年は審査員の一部入れ替えや増員を求める声があるのも確かである。出場者と審査員の年齢差が徐々に大きくなり、出場者が見せたい笑いと審査員が欲しい笑いにズレが生じているのかもしれない。点数がいまいち伸びなかったコントに対して現審査員がよく発するのが「もうひと展開ほしかった」「ドカンという笑いがなかった」といったコメントである。予想外の展開やわかりやすい爆笑ポイントがあれば、明らかに印象に残りやすい。しかし審査員自身の「笑った」「驚いた」という認識が薄かった以上、理詰めの審査をせざるを得ない。

 

私が思うに、審査員の入れ替え・増員を望む人たちは「むしろもっと理詰めの審査をする人がいてもいいのでは?」という意味で言っているのだと思っている。コント自体の構造や細かな演技、「関係性の笑い」に対する評価などがおろそかになってやしないか、ということを指摘しているのではないか。確かに「見た目が面白い」「キャラが濃い」といった要素は武器として強すぎるあまり、「コントってそういうことだっけ?」と疑問に思う人がいるのもうなずける。

 

そんな中、「関係性の笑い」一本で勝負する若手が現れ始めた。2019年のキングオブコントで決勝進出を果たしたかが屋はその筆頭で、卓越した演技力と関係性のおかしみを武器にキングオブコントに殴り込みをかけてきた。結果は6位であったが、彼らにとっては自分たちが本当にやりたいコントを決勝の舞台でやりきったことのほうが意味があったのではないかと思う。

 

彼らのコントには見た目の面白さやぶっとびキャラの登場などは一切なく、ドカンという笑いもない。そもそもドカンを用意していないし、用意する気もないのだろう。日常でありそうなシチュエーションを切り取り、登場人物の感情を観客と同期させることによって物語に没入させるという、まさに演劇、ドラマの手法である。ドカンの入る余地などない。それを踏まえて、6位という順位をどう見るか。予想外の展開、ドカンという笑い、濃いキャラクター、どれも持ち合わせておらず、現審査員の視点で評価するならば妥当な順位ということになってしまう。しかし、演技力や共感性の高さ、ネタの着眼点など、評価すべきポイントはたくさんあるはずで、審査員入れ替え・増員希望者たちはそういったところを評価する人員が欲しいと言っているのではないか。

 

とりわけ、新しい審査員として推されているのが、東京03・飯塚悟志である。確かに私も、彼ならば現審査員が取りこぼしていた評価ポイントを掬ってくれるのではないかと思っている。トリオコントの台本を書いている人間にしかわからないこともあるだろう。しかし、仮に飯塚氏が審査員になり、かが屋のような演劇に寄ったコントの点数が上がったとしても、ドカンの笑いやキャラの笑いに高得点を付けることに変わりはないと私は思う。極論を言うと、こういった新しい世代の笑いを正当に評価するには、それと同世代の審査員がいないと成り立たない。そうなってくると、じゃあ別の大会を作れば?という話になってしまう。

 

一歩踏み込んだ笑い、理解力が必要な笑いも私は好きだが、瞬間的にワッハッハと笑えるに越したことはないと思う。特にキングオブコントにおいては、テレビのゴールデン帯で放送される番組であるという大前提を忘れてはいけない。子供も見るしおばあちゃんも見る。キングオブコントはお笑いマニアの品評会ではない。ディープな笑いはYoutubeに2億本くらい上がっているので、そちらで楽しめばよい。

 

どんなお笑いの賞レースにおいても、誰しもが納得のいく審査方法など今後も現れることはない。「この大会ではこういう審査なんだ」と思って、楽しんで見るのが一番良いのではないだろうか。